善美の技術 (ソクラテス)
Technology of Good and Beauty (Socrates)

プラトンは、技術における人間主義の原型を『ソクラテスの弁明』のうちに書き記している。ソクラテスはデルフォイの巫女から「私以上の賢者は一人もいない」という神託を伝え聞く。そんなはずはないと思ったソクラテスは、賢者と思われる政治家や詩人を訪ねたのち、最後に「職人χειροτέχνης」を訪問する。ソクラテスの「無知の知」が語られる有名な箇所である。


とはいえ、アテナイ人諸君、私には、これらのよき職人たちもまた詩人と同様の誤りに陥っているように思われたのである。自分の技をうまくこなせるがゆえに、もっとも大切な別の事柄に関しても自分はきわめて賢いと誰もが思い込んでいたのであって、しかも彼らのこの愚かさがかの賢さを曇らせていたのである。 (Apology, 22d-e)


たしかに物を作るための「精妙」な知識についてソクラテスは職人たちに及ぶところはない。職人たちが長けているのは、物作りを上手くこなしていく「精妙な」技術知、つまり物の知の方である。職人たちは、自分が作っている制作物が人間にとっていかなる意味でよい、もしくは美しいと言えるのか、その倫理的・美的理由について根本から問うことがない。にもかかわらず、かれらは自分の技をうまくこなせるがゆえに、「もっとも大切な別の事柄」に関しても自分は知っていると思い込むようになる。

ソクラテスのこの言葉は技術の本質に関する多くの含蓄を含んでいる。すなわち技術者は自分がうまく対象を操作しうる能力や実績のゆえに、それが同時に人間にとって無条件によいものであると考えがちになる。だがそれは愚昧さそのものである。「彼らの賢さにおいて賢く、かつ彼らの愚昧さにおいて愚かであり、この二つを彼らのように併せ持つ」、そうしたいわば技術に関する根源的錯誤をソクラテスはここで指摘している。

困難を乗り越え、仕上げ、達成したという能力感情と自尊心、作業が順調にはかどっているリズム感覚、そうしたものによって技術者たちは自分が手掛けているものをよいものだと思い込んでしまう。逆にそう思わなければ職人たちが調子よく仕事をこなしゆくことはできない。技術、もしくは技術者の自己正当化はこのようにいわば回避困難なかたちで生じてくる。そのとき技術は表面的なスペック、確実性や精度の点では進展するとしても、人間生活をよりよいものにする根源的なイノベーションの力を鈍らせていく。

これに対してソクラテスが備えているのは人間の知、すなわち「人間の賢さ ἀνθρωπίνη σοφία」(Apology, 23a)であるという。ここでソクラテスが備えている知は肯定的なものではない。というのも彼はその知については「何も知らない」というのであるから。すなわち人間は、まったくもって賢くはないのであり、そのことを少なくともソクラテスはわきまえ知っている。人間の不完全性に関するこの「無知の知」こそが、彼の言う「哲学知」であり、かつそれを備えていることが「人間の賢さ」なのである。だとすればここで「人間の知」、すなわち人間にとっての善美を根本から問う哲学は技術の進歩の必要条件となる。

(古賀徹)