付属美
dependent beauty / pulchritude adhaerens
性能は良いのだがデザインがよくないといったように、製品の実用性を機能と呼び、その美的側面をデザインと呼ぶ語法はいまだ健在である。その語法が用いられるときには、製品の美は実用的な機能に対するいわば装飾・付加価値として理解されているのであり、その装飾としての美を構成するのがデザインだと解釈されているわけである。こうしたデザイン解釈の系譜をたどってゆけば、カントのいう付属美の概念に行き当たる。
カントによれば、美には二つの種類がある。一つが「自由美 pulchritudo vaga 」であり、もう一つが「付属的な美 pulchritudo adhaerens 」である。「自由美」は対象が何であるかについてのいかなる概念も前提としない美であるが、「付属美」はこうした概念を前提とし、この概念にしたがった対象の完全性に従属しているとカントは言う。対象の完全性とは、ある概念をその制作物がどの程度充足しているかという性能や機能、スペックを意味しており、カントの言う「機械的な技術」の観点からその達成度を測定される類のものである。
たとえば建物(教会、宮殿、武器庫、東屋)は、その実用目的、たとえば「教会」という概念を実現する手段としての条件、機械としての性能を充足している必要がある。そのうえでその建物が同時に美しい場合、その美しさは実用的な性能に付属する美ということになる。もしその建物が「教会」として役に立たないにもかかわらず美しいとすれば、それはもはや教会ではなく巨大な彫刻とでもいうべきものとなろう。
自由美と付属美に関するカントのこの区別は、十九世紀における純粋芸術(美術・ファインアート)と応用芸術(工芸)の区別に相当する。純粋芸術(彫刻、絵画、音楽など)は、純粋な趣味判断の対象となるものであり、対象の実用性とは無関係にフォルムのみの美しさで勝負する「美の技術」である。これに対して応用芸術は、概念を基準として測定可能なスペックにあとから付け加えられる装飾の技術である。したがって応用芸術、すなわち工芸は、その名が示している通り、機械的な技術である「工」と美の技術である「芸」との混合物となる。カントによれば、美におけるこのような機械性の混入は美の判断の純粋さを妨げるとされる。十九世紀においてその不純さは、商品に対する欲望の喚起といった資本主義や、国威の発揚といった帝国主義の欲望と結びつき、美しい人間関係を歪めていく。十九世紀後半に活躍したウィリアム・モリスは、当時のデザインにおけるそのような歪曲や腐敗を厳しく批判し、応用芸術としてのデザインを克服し、機能主義としてのそれへと転換する契機をその後のデザインに与えたと言える。(古賀徹)