自由美
free beauty / pulchritude vaga
デザインは一定の社会的目的・実用目的を実現することを任務とする。デザインにとっては、そこで構成された形象が実際に役に立つかどうかが決定的に重要になる。しかし同時に、その「かたち」がたんに役立つだけではなく、同時に美しくあることがデザインには要求される。だとすればそれが「美しい」とはいかなることを意味するだろうか。
18世紀の哲学者イマニュエル・カントは「自由美」を定義した。ここでいう自由とは、概念に規定された目的から解き放たれていることを意味しており、その代表例はカントによればまずもって自然美である。というのも自然(例えば花)はそれが何の役に立つのかといった利害関心から離れて、ただそれだけで美しく、心地よいのだからである。その「かたち」が美しく心地よいのは、その「かたち」を構成する諸要素がその「かたち」において統一されており、互いに調和しているからである。
そしてカントによれば、この自然美の概念から自由なありかたを模倣するのが「美の技術」である。したがって芸術作品は、それが何であるかという概念規定から独立して、そのかたちの調和や統一それ自体においてただそれだけで美しいのである。たとえば「ギリシャ風の線描」や「額縁や壁紙などにみられる葉型装飾」は、それだけでは何も意味せず、概念とは無関係にそれだけで美しい。歌詞を持たない楽曲、主題のない幻想曲などもこれに属するとカントは言う。
このような自由美の概念は、当時の芸術や芸術家たちが教会や世俗の目的に従属していたことに対する芸術の自律と重ねあわされて解釈される。従来の芸術家は、教会や貴族、もしくはブルジョワたちが望む目的を実現するために造形物や音楽を構成してきた。これに対して近代の芸術家たちは、美を実現するという目的のためにのみものごとを象るのであり、たとえ注文を受けて作品を制作するとしても、制作の内的論理や表現目的に関して注文主の支配を受けず、独立して仕事にあたることになる。ここで自由美は「それがあたかも我々に自然のように見える」ものであり、それゆえに社会的な権力からの自由、すなわち社会的諸勢力からの芸術家の独立を意味することになる。
ただしその自律は、カントにおいては芸術家個人の独断を意味しない。カントは、ある対象において美が成立しているかどうかの判断(趣味判断)は、その判断能力を備えた対等な個人からなる公衆を背景として下されるべきだと考えていた。判断にかかわるそれぞれの主観は、いかなる権威や趨勢からも独立して、とはいえ全体が要求するだろう規範的水準を予想しつつ、その両者を統合するように首尾一貫した美の判断をなす必要があるとカントは言う。
しかもそうした判断が可能となるには、そこに個人的な利益や内容的・素材的な快楽が混入してはならない。これをカントは美の判断における「無関心性(個人の利害関心から離れた態度)」と呼ぶ。作品を構成する素材の魅力(たとえば色彩や音調、描かれている主題の心地よさ)に囚われるとき、ひとはそれをわがものにしたり、その魅力に耽溺したりしたいと欲望する。これが自らの欲望の充足を求める個人的な利害関心である。これに対して美の判断は、素材が織りなすその連関、関係、配置、組み立てにのみ関心を寄せるので、美の対象をたんに鑑賞すれば十分であり、それを所有する必要がない。そのとき素材の個別性はフォルムによって乗り越えられ、形式についての満足、つまり対象との関係性における快楽が実現する。
制作者や鑑賞者は個人的なエゴを離脱して、要素同士が取り結ぶその関係性、つまりはその「かたち」のみについての公正な判断(「純粋な趣味判断」)をなすよう陶冶される。そのとき同時にそれを為す個人は、その個としてのあり方を乗り越え、他者との関係性のうちにある。それゆえ自由美にかかわる公衆はいわば美しい人間関係を形成していることになる。これが美的な公共性、後にハバーマスが規定した「文芸的公共性」の次元であって、そこにおいて人々は個人的な利害にのみとらわれることなく自由に交際する市民となる。このような自由でありかつ連帯する個人たちが下す判断について、カントはそれを個別から全体を展望しつつ、同時に全体から個別を判断するような「反省的判断力」によるものとし、その判断力による美の形成の論理を「目的なき合目的性」と名付ける。
芸術が従う美の論理は、既存の実用目的を実現するためのたんなる手段としての目的合理性でもなく、何の全体的展望もないたんなる個別的・素材的・即物的な自己満足でもない。何らかの目的を求めるようなかたちをとりつつ、その目的がなお与えられない制作の過程にこそ美は宿るのであり、それは同時に美を判断する批評の社交的プロセスのうちで実証される。伝統的な芸術作品が、宗教的啓示や権力の顕現にもとづく「代表的公共性」に依拠していたのに対し、カントによる美の技術の概念は対等な市民たちの自発性に基づく「市民的公共性」に依拠するものである。
このようなカントの自由美の概念は今日に至るまで芸術美の規範として機能し続けている。自由美はその先行者をアリストテレスやアルベルティの美の概念のうちに見出すこともできるが、カントはその美を当時サロンやサークルで培われつつあった市民的公共性によってこそ実現されると主張した点で近代的・啓蒙的である。またカントの自由美の概念は、シラーをはじめとしたロマン派の美学に影響を与えるが、だがそのような継承者においては、サロンやサークルに組織された公衆による判断といった理性的・啓蒙的次元が後継に退き、芸術家個人の内的確信や熱情、他者から切り離された孤独な魂(美しい魂)、個人を凌駕して貫徹される歴史といったものがその代わりに登場し、次第にその公共性を変質させることになる。
デザインが実用性から無縁ではありえないかぎりにおいて、それはカントの言う自由美ではありえず、その制作物についての判断は純粋に美的なものであることができない。そのかぎりでデザインは、一見するとカントの言う実用物の概念に付属する美(「付属美」を参照)であるかのように思われる。だが近代デザインの自律性は、実用物に付加された美的要素という意味での応用芸術の構図から離脱するときに成立する。近代デザインが何に役立つべきかというその目的をも含めた社会的センスの良さ、機能性を実現する全体的フォルムやそれを実現する過程それ自体の美しさを公共的判断のうちに問うかぎり、デザインはカントの自由美の構図をあるやりかたで反復しているといえる。(古賀徹)