メディア考古学
Media Archaeology
「デザインと人間をめぐる考古学的覚書き」との副題をもつ著書『我々は人間なのか?』(原著2016年)の冒頭部分で、筆者のB・コロミーナとM・ウィグリーは「デザイン」と「考古学」のあいだに二重の関係を指摘している。
人間という動物は現在までに、みずからが住んでいる地球を自身が作り出してきたデザイン(人工物)によって覆いつくすほどになっている。そこまでの歴史的なプロセスを批判的に再考するには、従来の近代デザインやデザイナーを出発点としているだけでは不十分であり、むしろ地質学的とも称しうるスケールからその蓄積を掘り起こすことが必要だろう。これを「考古学」的なアプローチと呼ぶならば、その一方で、本来の考古学の方法論もまたデザインを拠りどころとしてきた。というのも地中に埋もれた遺物からその年代や様式を明らかにする作業は、そこで見つかった人工物がその利用者による特定の意図のもとに「デザイン」されていることを指標としているからである。
なるほど、一見して縁遠いように思えるデザインと考古学の両者が、互いを求め合うようになるのも必然であったと言えるかもしれない。そこで要請されているのは、デザイナーという特権的な人間主体を軸とするのではなく、人工物としてのデザインやその物理的な動作や影響への着目である。ただし、こうした歴史研究のアプローチは、デザイン史の領域に先駆けるかたちで特に映像研究や視聴覚文化論の領域において、しばしば「メディア考古学」という呼称で知られているものでもある。
メディア考古学とは、過去の歴史的な蓄積を現在のメディア技術と突き合わせ、批判的な考察を試みるアプローチを指す。特にメディアをめぐる技術や制度の支配的な歴史に比して、あまり有名ではなかったり、廃れてしまったり主流にはならなかったもの、実現することさえ難しかった想像上のものを掘り起こし、そこからありえたオルタナティヴな軌道を描き出すことで、現在のメディア技術にいたる進歩史観や技術決定論について批判的思考を促すことを目的とする。こうしたアプローチは2000年代の英語圏やドイツ語圏の映像・メディア研究から同時多発的に登場し、現在までにアートやデザインの領域とも深い関連性を持つようになった。
特に「考古学」という呼称が選ばれたのには2つの含意がある。まずは冒頭にも確認したように、これまでのメディア技術の歴史的な蓄積を幾層にも折り重なった地層とみなし、そこに「埋もれた事物」を「掘り起こす」という比喩的な意味である。
こうしたアプローチを早くから取り込んだ領域のひとつが映画史であり、なかでも初期映画研究の影響が小さくなかった。現在まで、多くの人々が暗闇のなかで巨大なスクリーンを眺める形態が主流であったならば、テレビやモニタ、タブレットなどで映画を視聴する経験は、それを縮小しつつ再現可能にしたものとみなしうる(もはや後者の方が主流かもしれない)。しかしながら、その原型となる映画館の視聴形態が制度化されたのは1920年代以降になってからのことだ。それ以前の19世紀末に登場した初期映画は、物語を展開するよりもトリック撮影や編集技術を駆使して驚きや見せ物を中心にするなど、映画史家のトム・ガニングがいうところの「アトラクション」としての性質が支配的であった。視聴形態についても一人で映像を覗き込むエディソンのキネトスコープや、当初はカフェやサーカスのような喧騒のうちで愉しまれていたリュミーエル兄弟のシネマトグラフに端を発し、鉄道の先頭車両から淡々と撮影した映像を乗客席のような環境で楽しむヘイルズ・ツアー、気球のような乗り物から全方位型のパノラマ映像を楽しむシネオラマなど、いわばヴァーチャルな体験型装置が開発されてもいたのである。
こうしてみると映画というメディアの歴史的な変容は、現在までの映画館やそれに準じたものだけではありえず、別様にデザインされうる可能性を埋没させてきたとさえ言える。そうして見過ごされた数々の事例は、現在の映画が何を主流としてきたのか、そこからどのような意味で「新しい」技術へと展開しうるのかを再考するための重要なアーカイヴとなるはずだ。こうした観点から実際に技術的な詳細や多様な利用形態を掘り起こし、ありえたかもしれない可能性を描き出すことが考古学(アルケオロジー)的なアプローチの目的のひとつである。
「考古学」のもうひとつの含意は、このアプローチの理論的背景にかかわる。そのうち欠かせないのが、1969年に著書『知の考古学』を発表したミシェル・フーコーである。その議論を大雑把にまとめるならば、フーコーは偉人や権力者などを準拠点として連続的に描き出されてきた従来の思想史的な記述に対し、言われたことや書かれたことの集積体(アーカイヴ)に注目し、それらを人間主体から切り離して分析する方法を提唱する。誰かが発話や記述したことの解釈ではなく、語られたことの経験的なレベルにおいて、そうした言説が特定の科学や領域として形成されるための諸々の規則や歴史的な断絶を明らかにすることが狙いとされたのである。このアプローチに着想を得た数々の分野と並んで、メディア考古学もまた、重要な技術装置の開発者や作者たち──つまりはデザイナーたち──の意図や動機ではなく、各時代の政治、経済、技術的な背景のもとでときに無名や匿名の人物によるメディア技術や人工物そのものを分析し、それが要求されたり構想されたりする歴史上のパターンや複数の系譜を明らかにしようとするのである。
こうした歴史記述の手法は、英語圏ではすでに20世紀後半から美術史や(先に見た)映画史の領域にも導入されていたが、より直接的かつ批判的にフーコーの方法論を取り込むことで独自のメディア哲学を先導したのがフリードリヒ・キットラーであった。1980年代以降、文学理論から出発して現代のコンピュータへといたる独自の歴史観と理論や概念を練り上げたキットラーは、もっぱら文字や書物などのアーカイヴを分析対象としたフーコーの議論を(ジャック・ラカンの精神分析と織り交ぜつつ)、蓄音機や映画、タイプライターといった技術的メディアへと応用したのである。そうして文字に書かれた内容や撮影された対象は、各時代のメディア技術によって規定されているとする大胆な主張が導き出される。この考えにはしばしば(マクルーハンにも近しい)技術決定論との批判もあるが、いずれにせよ発明者や利用者の意図やその思想・観念的な背景でもなく、メディア技術の物質的な動作のレベルに着目した彼の議論が、(自身はそう呼ぶことはなかったものの)まもなく登場するメディア考古学に及ぼした影響は小さくない。
ここまでの議論に影響を受け、実際に「メディア考古学」を標榜する代表的な論者には以下の者たちがいる。先に見た初期映画の研究にも着想を得て、T・エルセッサーやF・カセッティは、映画館という制度が変容しつつある現在にこそ、映画のメディア考古学を展開してきた。E・フータモは映画以前の視覚文化にもさかのぼり、上映機の原型となるマジック・ランタンやピープショーの装置(日本であれば、覗きカラクリ)、またはコインスロット型のアーケード・ゲームなどの事例を実際に蒐集しつつ、それらを現代のメディア・アーティストたちの作品とも関連づける考察を積み重ねる。これらとも類似した観点からW・ストローヴェンは、映画や玩具、テレビなどの視覚文化の歴史と理論を練り上げて「タッチスクリーンの考古学」を展開する。一方でドイツでは、キットラーの仕事をより直接的に展開したS・ツィーリンスキーやW・エルンストらが、科学史や技術史とも繋がりの強い理論的ないし哲学的な考察を練り上げ、サイバネティクスやコンピュータ、デジタル機器への鋭い批判を打ち出してきた。分析の対象や理論的背景は異なるものの、これらの研究はメディア技術の具体的な動作や使用のレベルに着目し、直線的な技術進歩史とは異なる複層的な分岐や伏線を明らかにしようとする点で共通している。
2012年に著書『メディア考古学とは何か』を発表したユッシ・パリッカは、これらの研究に続く自身の仕事を「メディア考古学の第二幕」と位置付けながら理論的な体系化を試みる。なかでもデザインとの関係からは、その特徴や意義を次の二点に要約することができる。まず、デジタル技術が全盛となった現在にこそ、メディア技術の物質性を問い直す考古学的なアプローチが登場してきたことの意義である。すべてがデータへと還元され、オンライン上で一元化するようにさえ思われるなか、これまでにメディア技術が具体的な事物としていかにデザインされてきたのか、もしくは逆に、それらが私たちの身体や行動、認識をいかに規定してきたのかを批判的に再考することがますます肝要となるだろう。
そして、もうひとつがアートやデザインとの緊密な連動関係である。パリッカはメディア考古学が「創造的な実践の方法論」として機能するはずだと主張し、先のフータモも実際に、岩井俊雄やポール・デマリニスといった作家たちの名前を挙げて、「私に先んじてメディア考古学的探究を開始していたアーティスト」と呼ぶ。19世紀の光学玩具を現在の技術と織り交ぜた前者であれ、発明家エディソンへのオマージュを捧げた作品を開発する後者であれ、そこに共通するのはメディア技術を実際に修理したり弄ったりしながら批判的思考を繰り広げる実践者としての姿──フータモの言葉では「T(h)inker」──である。かくしてメディア考古学がデザインにもたらす意義は、単なる技術的実践としてだけでなく、デザインの歴史そのものを鋳直すことへと向けられている。
関連する授業科目
- 未来構想デザインコース デザイン美学
- デザインリテラシー科目 デザイン論1・2
参考文献
- エルキ・フータモ(2015)『メディア考古学』太田純貴訳、NTT出版
- ビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー(2016=2023)『[新版]我々は人間なのか?』牧尾晴喜訳、BNN出版
- フリードリヒ・キットラー(1986=2006)『グラモフォン・フィルム・タイプライター』石光泰夫・石光輝子訳、ちくま学芸文庫
- ミシェル・フーコー(1969=2012)『知の考古学』慎改康之訳、河出文庫
- ユッシ・パリッカ(2012=2023)『メディア考古学とは何か?』梅田拓也ほか訳、東京大学出版会