2020.6.3

第13回デザイン基礎学セミナー『写真とデザインが交差するところ』

写真とデザインは歴史的にみると、理論や実践の対象として、少なからず類似した立場に置かれてきたのではないでしょうか。しかしながら、それぞれの領域を横断可能にする議論は決して多くはありません。そこで写真論を専門としてきた研究者(増田)と、写真を作品制作に取り込んできた美術家(栗山)が、写真とデザインとが交差する議論を振り返りつつ、その可能性について対話を試みます。

招聘講師

増田展大(九州大学大学院芸術工学研究院講師)

写真史・映像メディア論研究。写真史を起点として、科学やアートを横断するイメージについての考察を進める。著書に『科学者の網膜 身体をめぐる映像技術論:1880-1910』(青弓社、2017年)など。

栗山斉(九州大学大学院芸術工学研究院助教)

美術家。作品制作を通じて「無」と「存在」の同等性について探求している。主な活動に「第54回ヴェネチアビエンナーレ collateral event Glasstress」ムラーノ島旧ガラス工場(ベニス、イタリア)、「What Dwells Inside」S12 Galleri og Verksted(ベルゲン、ノルウェー)などがある。

日時

2020年6月3日[水]16:30-18:30 (16:00開場)

会場

オンライン

レビュー

写真とは現物をありのままに写す証明である。古写本を高解像度でスキャンした映像ファイルはもはや現物と変わるところがないし、犯行現場のビデオ映像や静止画像は犯罪の決定的な証拠になる。写真は現実を確認し、より確かなものにする。

だが、メディア論者の増田展大さんによれば、そうした証明写真は現実を同時に虚体化してもいるという。写真は現実からその現実性を奪い、それを見慣れぬものにするのだ。

増田さんは、美術家の栗山斉さんの作品、 ∴0=1 -medium: blue snowfield (2010) を例にそれを説明する。栗山さんによれば、この作品は、地球観測衛星によって700kmの上空から撮影された映像で、大気中の光の散乱によって雪原が青く染まった様子を映し出している。われわれが白いと思い込んでいる雪原には宇宙の色が映り込んでいて、「青い地球は宇宙と地続き」なのである。

Hitoshi Kuriyama [from left to right] 《0=1 -medium: blue snowfield》 《0=1 -medium: blue drift ice》 《0=1 -medium: blue cloud》 2010, Lambda print, ©︎Hitoshi Kuriyama, Courtesy of JAXA (Japan Aerospace Exploration Agency)

同様に栗山さんの作品、∴ 0=1 -trace of light (2009)は、過電流によってヒューズが飛ぶ光が直接印画紙に焼き付けられた作品である。あるものがないものへと変化する中間点、つまり0=1が成り立つ移行の極点において現象が生起する。これら栗山さんの一連の写真作品は、ものの生死の瞬間を証言すると同時に、そうした瞬間においてのみ、ものごとが成り立っていることを証明するものでもある。

Hitoshi Kuriyama 《0=1 -trace of light》 2009, C-print on acrylic mount, ©︎Hitoshi Kuriyama

こうした「証明写真」を見るとき、ひとははっとして、何かに気づく。増田さんは現実を差異化するこうした写真のありかたを、多木浩二の言葉を借りて「模型」と呼ぶ。模型もまた、現実の正確な似姿を示すことで、現実を確認する作用を果たしていると思われている。だが模型もまた、世界に対する見方を決定的に変えてしまう。

建築家はなにゆえに現実のモックアップ模型を作るのだろうか。それは自らの設計を現物で確認するためではない。むしろそれは、現実のスケールを変化させ、そこに自らの設計物を配置することで、世界に対する新しい見方と自らの制作物の新しい意味を同時に獲得しようとしているのだ。

20世紀のメディア論者のフルッサーは、新しい現実の姿を与える操作を指して、 in-form と言ったと増田さんは言う。information とは、既存のものから〈かたち〉を奪い、それに新しい〈かたち〉を刻みつけることである。だとすればデザインとはそうした in-formation のたえざる操作ということになるだろう。

運転免許試験場で、住所と氏名を確認して下さいと警察官に言われても、まずはひとが見るのは自分の写真だという。証明写真を確認することは、いつもの自分をそこに再認するのではなく、免許証という枠組みに組み込まれた自分の新たな姿を発見することでもある。それは一種の劇場であり、そこでは自分が劇を演じている。演劇をみることには、いつも喜びがあふれている。

 (古賀徹)

増田展大
栗山斉