2025.11.7

第34回デザイン基礎学セミナー『沈黙から言葉へ:子どもの権利と回復を支えるデザインの役割』

子ども時代の感情の抑圧が社会に長期的な影響を及ぼすと指摘したアリス・ミラー(1923-2010)は、同時に、子どもを権利の主体として尊重し、回復の条件を示した。今回はその視座にも依拠しつつ、子どもを権利主体とする回復の公共圏をいかにデザインし得るのか、思想と制度、現場の実践を往復しつつ、ともに深めてみたい。

講師

田北 雅裕 Takita Masahiro

九州大学芸術工学研究院准教授。1975年熊本市生まれ。2000年、学生の傍らデザイン活動triviaを開始。以降、まちづくりとデザインを切り口に様々なプロジェクトに携わる。04年に熊本県杖立温泉街に移住、住民の立場からまちづくりを実践。現在は、コミュニケーションデザイン/サービスデザインの観点から、主に子ども家庭福祉の課題を乗り越えていくための実践・研究に取り組んでいる。

日時

2025年12月2日(火)18:00~20:00(開場 17:45~)

会場

九州大学大橋キャンパス・印刷実験棟2F+オンライン (ZOOM)

*ご関心のある方はどなたでも自由に参加できます。参加ご希望の方はこちらの申込みフォームからお申込みください(講演は日本語のみ The lecture will be given in Japanese only.)。

*オンライン参加をご希望の方は、上記フォームに入力頂いたアドレスに当日、URL等のご案内をお送りします。事前にZoomの最新版をダウンロードしてください。

主催

九州大学大学院芸術工学研究院・デザイン基礎学研究センター

共催|九州大学芸術工学部未来構想デザインコース

問い合わせ先|古賀徹 

designfundamentalseminar#gmail.com(#は@に置き換えてください。)


第34回デザイン基礎学セミナー(PDF)

レビュー

世界のあらゆるところで内戦が続いている。理由のない絶え間ない攻撃、しかも全く抵抗できない非戦闘員に対する一方的で恣意的な心身の破壊活動が膨大な規模で毎日繰り広げられている。戦場は家庭や学校であり、一見平和に見える日常の背後にびっしりと張り付いている隠された暴力に対しデザインには何ができるのか。田北雅裕さんはこの重い問いに向き合ってきた。

糸島市には「こどもの権利救済委員会」があり、田北さんはその会長を務めている。救済委員会は、救済申し立てに対して調査の上、市に対して勧告を行うことができる。そういう法的な権利擁護が実効力を持つためにこそ、それを支える手立てや論理を日常の中でいかに積み上げることができるかが問われている。

権利とはたんに法的に保証されるべきものではなく、日常的な社会の営みという中間領域における様々な手あてによって実現される。田北さんによれば、虐待を受ける子どもに対してたとえ一時保護などの行政的介入がなされるとしても、そこには「あいまいな喪失」と呼ばれる状況が生じてしまうという。子どもは住み慣れた家や人間関係、親しんだぬいぐるみやおもちゃから不断に引き剥がされ、別の場所へと移送されるいわばディアスポラ状況を強いられる。

そうした状況がもうひとつの権利剥奪であるのは、そもそも権利というものが、親しみが込められたひとやものに取り巻かれ、それらから手当てされ続けることでかろうじて維持される繊細なものであるからである。ひととの情緒的な持続的結びつきを中核としつつ、ものや場所との関係も含めてこれをアタッチメントと呼ぶとすれば、こどもはアタッチメントのそれぞれに意味を見出す。その意味の積み重ねを通じて「安心感の輪」と呼べる環境を構築し、その環境において力を付け、次第に外界へとこどもは冒険できるようになる。だからアタッチメントの輪を妨害するすべての社会的操作や圧力、暴力はすべてこどもの権利の侵害となる。

田北さんが講演に当たって引用したアリス・ミラーは、反応を不可能にする行為として闇教育を定義する。こどもは叱られたり殴られたりすれば当然のように泣き叫ぶ。だがこの反応は教師や親によって反抗の萌芽とみなされ、抗議し泣いたこと自体が次なる暴行の対象となる。このようにして反応を奪われたこどもは大人の言うことに疑問も感情も持たず、無反応にそれをそのまま実行する機械となる。押し殺された感情は社会の趨勢に適合しない別の対象への攻撃衝動へと転化する。総統の命令は自己を押し殺した生き物たちに火をつける。

すべての反応は様々なアタッチメントを通じて実現する。たとえば辱められ殴られた悔しさは自分の言葉と身体を通じて表現にもたらされ、それを支える友人や大人たちを通じて聞き届けられ、慣れ親しんだおもちゃやぬいぐるみ、お気に入りの場所を通じて受け入れられ慰められる。逆に暴力によって自己否定を強要され、自分の言葉や身体がもはや自分のものではないかのように思われるとき、ひとは何も反応できなくなる。

田北さんは虐待で傷を負った一人一人と直接に向き合い、その人たちの回復に寄り添うことはその道の専門家の仕事であり「自分には無理」という。暴力により言葉を奪われ、反応できなくなった人たちがアタッチメントを通じて自己を取り戻すその環境に関与することしかできない。たとえば被害にあったこどもが行政機関にアクセスするためのウェブデザインは決定的に重要だと田北さんは言う。役割に固定された人間関係を柔らかく溶き解す「TOKETAカード」も田北さんの実践だ。孤立した存在が何かにアタッチするその手掛かりを作ることはできる。それを田北さんは「人と人の間を補う技術」と呼ぶ。

そのひとを取り囲む親しい人やモノたちがそのひとの環境を形成する。おそらくデザインとはこの環境、つまり「風景」に関わるのであろう。この論点が今回の講演とそれに引き続く議論の白眉となったように思われる。田北さんは自分が高校生のときによくタバコを吸いに出かけた熊本市の白川の橋のたもとについて語る。そこはいまではホームレスの人が出入りできないように柵に囲われてしまった。近代デザインは環境の整備と称して、そこに生きる人々が自らの縁となしうる様々なアタッチメントの可能性を破壊し都市を漂白してきたのではないか。ランドスケープデザインに対するこの問題意識が田北さんの活動の核にある。だとすれば漂白された都市を強要されることはそれ自体権利の侵害であり、デザインによる虐待ということになるだろう。おそらくこどもはこの種の虐待、あいまいな剥奪にすでに取り巻かれているのであろう。このような虐待に抗うアタッチメントの可能性を残すこと、そしてそれを豊饒にすることが、こどもをも含むすべての存在者の権利を育むのである。

(古賀徹)