オートポイエーシス
Autopoiesis

飲料水の確保に問題を抱える地域に政府開発援助の予算を用いて先進技術を導入して井戸を掘るという事例を考えてみよう。援助予算や技術者、補修部品などの外的介入が途絶えてしまえばその井戸はやがて文鎮化し遺跡となる。井戸を持続的に運用するためには、現地の人々の生活ネットワークがその井戸を運用し補修する自律的な「システム」を構築する必要があるだろう。飲料水確保の担い手を、その担い手自身が構成員となる社会の中で持続的に再生産する仕組みがなければ井戸は持続可能とならない。

そのようなシステムの論理は「オートポイエティック」と呼ばれる。アリストテレスによればポイエーシス(有機的制作)とは個物(生命体)のうちに潜在している目的を開花させる技術的な介入の論理を指していた。これに対し、チリの理論生物学者であるマトゥラーナとヴァレラは生命の自律的に作動する論理としてオートポイエーシスの概念を提示する。彼らによるとオートポイエーシスとは「機械の有機的構成」を指し、そのような機械は次のように定義される。


オートポイエティック・マシンとは、構成素が構成素を算出するという産出(変形及び破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)された機械である。


彼らによると細胞は生命体の構成要素である。ここで細胞はある種のネットワークを生体(単位体)として構成することで当の細胞自体を再生産し続けている。マトゥラーナとヴァレラは、こうした自己産出の反復的作動を通じてその作動を同時に維持するホメオスタシス的な構造が成立しているかどうかで、その個体が生命体かどうかを判別しうると主張する。

彼らによればこの自己産出機械は自律的である。たとえばエアコンのような通常の機械は、サーモスタットによって室内温度にホメオスタシス的効果を実現するとしても、その外部にある機械、例えば工作機械や工場によってあくまで他律的に生産されるのであり、自己自身を再生産するわけではない。もしエアコンが自己産出的であるとすれば、エアコンが自らの機械装置それ自体を同時に産出するネットワークを構成する場合である。そのときホメオスタシスの範囲はたんなるシステムの効果からそのシステム自体の構成へと拡張され、その全体がオートポイエティックとなる。

また自己産出機械は外部の観察者が規定するような入出力を持たない。たとえば視覚-運動システムを考えてみよう。外界から入力される可視光線が網膜を通じて電気信号に変換され、神経組織を伝わって脳に伝達され、脳からの指令が行動として出力されると考えるとき、そのシステムは通常の意味での機械である。ところが視覚-運動システムを一つの自己産出機械と考える場合、その機械は網膜の錐体(すいたい)細胞や視神経、筋肉などの構成素を産出するネットワークに過ぎず、いうなれば自己完結している。知覚とは光線の入力ではなく、そのシステムが「攪乱」されることを意味する。そのとき視覚―運動システムが攪乱され内的に変化しているように見えるのは外部の観察者から見てのことであり、そのシステム自身にとっては環境に対する恒常性を維持しているにすぎないのである。

このようなオートポイエティックなシステムが古典的なポイエーシスの論理と異なるのは、前者が個体のうちに目的を内在させず、その限りで「機械」と呼ばれる点にある。古典的なポイエーシスは個物のうちに潜在する目的を顕在化させる働きでありその運動は目的論(テレオロミー)に規定されていた。これに対して自己産出システムにおいては構成要素たちがそれ自身を産出するネットワークが存立し、それを維持するように自己言及的に作動しているだけであり、それゆえそこに目的が存立する余地はない。彼らによれば目的論は無目的に働くシステムに対して外部の観察者が持ち込む投影に過ぎないのである。

オートポイエーシスが自己を維持する自然生命体の論理であるとすれば、自己言及的なプログラムによって計算機上に人工生命をシミュレートするのはオートポイエティックなデザインの一つの事例となるだろう。だがデザインにとってこの論理が決定的に重要となるのはその社会的局面においてである。まちづくりや開発援助、建築計画など自律的で持続可能なシステムの構築を課題とする場合、デザインにとってオートポイエーシスの論理は欠くことができないものとなる。その場合にデザインはシステムの持続的作動そのものをデザインすることになり、デザインの最終的な成果をその自己産出的プロセスに委ねることになる。

これに関して河本英夫はマトゥラーナとヴァレラの著書の解説において未来社会のデザインを次のように述べる。河本によれば、未来社会の理想イメージを最初にまず描いて、そこから逆算していま何をすべきかを考えるという通常の社会計画においては、社会を構想するエリートとそれに従う一般の人々という従属関係が生じ、後者は前者のたんなる手段になるという。これに対して、一定のコミュニケーションの型を倫理的コードとして定め、その順守を通じて結果的に一定の社会が産出されるありかたをオートポイエティックな社会形成と考えうるという。

具体的な例を独自に考えてみると、たとえば〈目の前の相手に親切にする〉ことを社会の倫理コードとして設定し、その基本要素を自己産出するように人々のコミュニケーションネットワークが構築されると考える。その時には人々の親切コミュニケーションは目標実現のたんなる手段ではなく、まさにその行為の反復を通じてシステムを構築する中核的な役割を果たす。未来社会の構築についてどの程度その目的が達成されたかといういわゆる客観評価は外部の観察者からのものであり、内部からは親切コミュニケーションの充実強度としてそのつどそれを実感するほかない。そこにおいては手段と目的の役割的・時間的分離、デザイナーと参加者の分離はそもそもはじめから存在しないのである。

持続可能性や内発的発展、内発的動機付けや自発的創造力、自己効力感を高めるオーナーシップのデザインを考えたり、個々のデザイン行為とデザイン生態系の有効な関係性を考えたりするとき、オートポイエーシスの論理はデザインにとって決定的に重要になる。他方で、資本制や家父長制、ハラスメント的コミュニケーションなど、デザインの課題としての自己産出的システムを想定することもできる。→「システミック・デザイン」

(古賀徹)

参考文献

  • マトゥラーナ、ヴァレラ『オートポイエーシス 生命システムとは何か』(河本英夫訳、ちくま学芸文庫、2025)