モナド論
デザインを構成する要素はモノなのか記号なのか。製品意味論product semanticsは製品とその構成要素を記号の単位、すなわち意味を持ったイメージとしてとらえ、その意味の構成体としてデザイン・プロダクトを分析する。自然物や人工物、さまざまなサービスや活動をモノではなく記号もしくはイメージの単位へと還元する見方はデザインのひとつの潮流を形成する。
デカルトが世界を構成する最小単位をモノに置いたのに対し、ライプニッツはそれを表象(イメージ)のうちに求め、それをモナド(個体的実体)と呼んだ。モナドは一つの意味によって代表される表象の単位であり、命題における主語に相当する。ある命題が真であるのは、主語がそれに相当する述語をそのうちに含み持っている限りにおいてである。
独自の例で説明すると、たとえばフィルムカメラはレンズやシャッター機構などを内蔵して成立する。「カメラ」というイメージの単位(主語=モナド)は、「レンズ」や「シャッター」、もしくは「黒」といった同様のイメージの単位(述語の意味)をそれ自身のうちに内包している。これに加えて「カメラ」は、物質的にはその外部にあるフィルムや現像処理、印画紙、撮影者やモデルといった「カメラ」が位置づく無限に多様な文脈の意味をも潜在的に内包している。そうであるがゆえに「カメラ」についての様々な述語付け(表出)が可能となると考えるわけである。
「カメラ」を「私」に当てはめてみると、「私のモナド」は私に現れるイメージ単位のすべてを自分自身のうちに時々刻々と表出してしまっている。それらのイメージ単位もまたそれ自身のうちに別のイメージ単位を内包しているから、その無限の内包関係を通じて私は「宇宙」全体を表出していることになる。とはいえ私の表象の能力は限られているから、こうした無限の包含関係は潜在的なものにとどまり、私はそのうちに内包する宇宙全体を一挙に見渡すことはできない。私はその一部のみを「理性の真理」として論理的に、もしくは「事実の真理」として因果的に顕在化することしかできない。私のモナドのうちに表出されるすべての要素は時々刻々と変化しており、私はその変化をも「微小知覚」としてすでに表出している。しかし私はそれらすべてを判明に知覚することはできず、実際には変動している表象内容を一つの単位(主語)うちで同一的に把握するほかない。イメージが実際には変動しているにもかかわらずそれを同一の単位のうちに把握するしかない以上、私はそれを「同じもの」ととらえているのである。これを「不可識別者同一」の原理という。実際には流動し続ける表象内容に対し、私がそれを現に同一のものとして把握してしまっている矛盾をライプニッツは人間の識別能力の有限性、個別性によって調停し、しかもそうした認識論的な同一者に対し、神によって創造されたモナドという存在論的・形而上学的な実体性を与えているのである。
ライプニッツによれば、このようなモナド論的システムは神によって一挙に創造されたのだという。現実世界において私のモナドと他者のそれのうちに表出されているそれぞれのイメージが相互に対応しているのは、その対応関係の演算を神が担当しているからである。たとえば遠隔でプレーヤーが接続しているビデオゲームを考えてみよう。私の端末に表示されている映像と対戦相手のそれが対応しているのは、同様に私の側の攻撃のアクションが相手方の被害発生と対応しているのはそれを可能にする演算が刻々となされているからである。このシステムにおいては、デカルトのいう座標空間もまた、たとえばそれぞれのプレーヤーが侵入してそこで戦う古城のように、双方がともに依拠する規約=アルゴリズムのようなものであり、その規約に準拠することでそれぞれのプレーヤーは自らのパースペクティブからそれぞれの対象を知覚することになる。
無限に複雑な包含=表出関係のすべてをその隅々にわたって神は知悉しているが、有限な表象能力しか持たない人間は理性を用いてその一部を論理的・因果的な系列として把握するしかない。このような系列把握の形式が代数方程式であり、ライプニッツにおいては独立変数と従属変数がとりうる対応関係とその系列が現実を構成し、それぞれの瞬間と勢いが現在を構成する。瞬間にはその変化の勢いが内在するという発想は、ライプニッツにその発案が帰せられる微分に対応する。
デカルトにおけるモノはその外側から理性によって分割され、直観され、配列され、操作される。したがって操作の原理は機械的である。これに対してライプニッツにおいて表象の単位はすでに別の要素をそれ自身のうちに包含しており、知覚や技術的操作はその潜在的なものを顕在化するだけである。したがってその操作は有機的なものとなる。デザインはデカルトにおいて機械論的であるが、ライプニッツにおいては有機論的であるといえる。
ライプニッツのモナド論は高精細な表象の細部に注目し、その必然性を動的かつ精密に把握しようとするものであり、したがってデカルトの物心二元論とともにバロック文化を代表する思想形態であるといえる。彼らの思想は17世紀以降の科学革命を支える論理的・数学的基礎として機能した。20世紀のイギリスの哲学者であるホワイトヘッドはライプニッツのモナド(個体的実体)に対応する形で「現実的実在actual entity 」の概念を提起し、独自の有機論の哲学を展開している。
十九世紀以降の工業デザインは工場における大量生産とともに成立したが、そこにおいて世界を構成する単位は物質であり、それはデカルト的な分割と構成の原理によって把握され構築されてきた。二十世紀以降、メディア技術や計算機科学、人工知能技術の進展に伴って、デザインの対象はモノからイメージ、物質から意味、ひいてはアルゴリズムへとその重心を移しつつある。いまや意味こそがデザインにとって決定的となれば、ライプニッツやホワイトヘッドの存在論がデザインを説明する原理として今後ますますその重みを増してくると考えられる。
(古賀徹)
参考文献
ライプニッツ『モナドロジー』(谷川多佳子・岡部英男訳、岩波文庫、2019年)
ライプニッツ『形而上学序説』(佐々木能章訳、岩波文庫、2025年)
ホワイトヘッド『過程と実在1──コスモロジーへの試論』(平林康之訳、2023年)