2024.7.1

第30回デザイン基礎学セミナー『美学から考える「場」とそのデザイン』

美学(感性論)の仕事が、自分と異なる人・もの・自然との協働から新たな感性を発見・言語化することだとすれば、そこでは協働の「場」が生まれています。こうした場、さらにはそのデザインについて、美学の立場から考えてみたいと思います。

講師

秋庭史典 Fuminori AKIBA(名古屋大学大学院・教授)

1966年、岡山市生まれ。専門は美学。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了(美学美術史学)、博士(文学)。現在は、未来社会における幸せとは何か、そのために美学や芸術学は何ができるかという視点から研究を行っている。主な著書に『絵の幸福 シタラトモアキ論』(みすず書房、2020年)、『あたらしい美学をつくる』(みすず書房、2011年)など。

日時

2024年7月24日(水)18:00~20:00(開場 17:45~)

会場

九州大学大橋キャンパス・デザインコモン2F+オンライン開催

*ご関心のある方はどなたでも自由に参加できます。参加ご希望の方は前日までに、こちらの申込みフォームからお申込みください(締切:7/23、講演は日本語のみ The lecture will be given in Japanese only.)。

*オンライン参加をご希望の方は、上記フォームに入力頂いたアドレスに当日、URL等のご案内をお送りします。事前にZoomの最新版をダウンロードしてください。

主催

九州大学大学院芸術工学研究院・デザイン基礎学研究センター

共催|九州大学芸術工学部未来構想デザインコース

第30回デザイン基礎学セミナー(PDF)

レビュー

デザインと美学の関係について少なからず当惑してしまうことがある。デザインが一般には、芸術よりも実用性の高い製品や実践のことだと理解される一方、美学とはおおむね芸術作品を対象として、哲学的ないしは思弁的な議論を展開する専門領域だと考えられているからだ(たしかにそのとおりではある)。個人的なことを言えば、私が担当する「デザイン美学」という授業で学生の前に立って話すたびに、そうしたデザイン/美学の折り合いの悪さを少なからず感じていた──こんなことを相談することからご快諾いただいたのが、今回の秋庭さんの講演であった。

秋庭さんは今回のタイトルを「美学から考える「場」とそのデザイン」と銘打ち、そのリード文の冒頭で、美学の仕事を「自分と異なる人・もの・自然との協働から新たな感性を発見・言語化すること」だと定義した。この言葉からは先のような戸惑いが晴れるように感じられた。「自分とは異なる人・もの・自然」と対峙する場面とは、なにも美術館で作品を鑑賞するときにかぎらず、教室でつまらない(?)授業を聞いていたり、普段の職場や家庭でコミュニケーションをしたり、道具やコンピュータなどのモノを手にするときなどでもあるだろう。そのそれぞれの場面に「感性的な」作用が生じているなら、美学がデザインと深く関連していることはまちがいない(それはもちろん「美しい」に限らない)。

ただし、秋庭さんの講演がなかでも注目を促すのは、最後にある「自然」との関係である。そもそも最近の美学も「感性の学」という元来の意義に立ち返り、芸術作品に限らない議論を展開するようになってはいる。その間の芸術作品はというと、先端的な技術の暴走や政治的な不和に対して批判的なスタンスをとるものが多く、(少なくとも10年ほど前には)こうした動向に少なからず違和感を感じていたのだと秋庭さんはいう。

秋庭さんが上梓された著作『あたらしい美学をつくる』(みすず書房、2011年)では、実際に何らかの姿形(フォルム)をとる作品を前にして沈思黙考するといった従来の芸術理解に対して、自然計算(natural computing)という新たな考えが導入されている。この概念は、もとは計算機科学者の鈴木泰博氏の議論から導入されたもので、コンピュータのように一定の解答を導き出すための高度な計算処理を果たすのとは異なり、むしろ身の回りに起きている自然現象が状態を推移するうえで必要となる一定の「手続き」を指す。その具体例となるのは、植物(キャベツ)─害虫(コナガ幼虫)─天敵(コナガマユバチ)という生態系である。畑のキャベツは、コナガ幼虫に葉を齧り取られると、その唾液の成分を探知して生化学反応系を切り替え、今度は天敵となるコナガマユバチを誘引する「匂い」を生成するのだという。この驚くべきやりとりを果たす相互の関係性が生態系の多様性と維持を可能にしているのだが、さらに重要なことは、かくなる自然現象には順番を入れ替えることのできない「手続き」が潜んでいるという点である。秋庭さんはこうした自然計算における手続きや仕組みを(先のフォルムに代わる)「アルゴリズム」と呼び、それを自然科学や情報学から美学゠感性論の領域に採り入れようと提案するのである。

私なりに要約すると、この考えはコンピュータのように数式や言語のような任意の情報の処理ではなく、むしろ身の回りの自然現象に内在している手続きや仕組みに着目し、その巧みな順序のうちに特有の情報(とその生成)を見出すという逆転の発想である。そして秋庭さんによれば、こうした自然計算のアイデアこそが、現在の芸術実践から忘れ去られてしまった特性を喚起することにつながるというのだ。

20世紀以降の芸術作品の多くが、同時代の政治経済や科学技術に批判的な態度を打ち出すか、もしくは難渋な謎解きパズルのように思われるなら、その歴史的な要因は近代以前にまでさかのぼる。ルネサンス期にリベラル・アート(知性による自由芸術)とメカニカル・アート(手仕事による機械芸術)に分かれていた「芸術」は、18世紀の美学を分水嶺として「ファイン・アート」を独立させることになった。これが詩や音楽や絵画や彫刻を指す一方、機械芸術の方はというと、人間の能力を越え出る観察や反復を可能にした近代以降のテクノロジーの進展とともに、いわゆる自然科学としての展開を遂げたことも周知のとおりである。それに反発を強めるかのように、ファイン・アートは20世紀に入る頃からいわゆる「コンテンポラリーアート」へと変貌を遂げ、先のように科学技術や制度に対する批判的な態度を先鋭化していくだろう。ただし、それは結果として、それ以前のアートが保持していた自然との密接な関係を断絶させ、芸術の実践を孤立した領域に閉鎖させることになりかねない。


かといって、なにも以前のファイン・アートへの回帰を訴えるわけではない。むしろ現在に失われてしまった特徴、すなわち作品と自然との密接な関係や、それがもたらす快の可能性をあらためて現代に特有の仕方で探求すべきなのであり、自然計算という考えがそのきっかけとなるのである。たとえば、ウォルター・デ・マリアによる作品《Lightening Field》(1971-77)は、アメリカの広大な砂漠地帯に巨大な金属棒400本を等間隔に並べ、偶発的な落雷を恣意的に引き起こそうとしたランドアート作品として知られる。ただし、この作品を実際に見るためには、予約や宿泊や旅程を必要し、それを何日もかけてクリアしたところで実際に落雷が見られるとは限らない。それでもこの作品を「自然計算」として捉え直すなら、間接的かつ非明示的な仕方で(まるで先のキャベツのように)落雷という自然現象を呼び起こす「手続き」(アルゴリズム)こそを具現した作品として理解することができるだろう。

秋庭さんは、それを通常のコンピュータによって明示される「構成的計算」と比して、手続きを遵守しながら偶発的な出来事を呼び込もうとする「神託的計算」と呼ぶ。神託的計算は、人間の側で一定の手続きを踏むことを必要条件としながら、それでいて自然によるプログラムを事後的な仕方で呼び出し、実行可能にするような手続きのことである。そうした手続きを遵守することで自然のうちから特定の現象を呼び込もうとすることは、カントが芸術の特徴として述べた「目的なき合目的性」という概念を想起させるかもしれず、より単純な事例であれば、近代以前の(非合理的な)雨乞いの儀式のように思われるかもしれない。だが、秋庭さんはこれと似た事態を生命科学における遺伝的アルゴリズムやDNAコンピューティングといった自然科学や、触覚的なデバイスや3Dプリンタを駆使する最近のデザイン実践、さらには「マッサージ」を独自に楽譜化して人間やロボットに再生させる感性コミュニケーションの試みに指摘していくのである(その多くは本学の芸術工学部の実践とも深くかかわるものだろう)。

講演の後半から最後にかけて、秋庭さんは芸術工学部の卒業生が参加した展覧会や所属先の名古屋大学でのプロジェクトなどを事例に、最近に取り組んでいる「場」のデザインに言及した。これも乱暴にまとめると、場のデザインとは具体的な場所や環境を特定の目的に向けて事前に設定したり固定するのとは異なり、たとえば目の見えない走者と伴奏者との関係のように、相互の身体や呼吸のリズムを同調させようとする関係こそを重視するものである。そのような場のあり方について仏教思想や日本哲学を取り込みつつ、いつ落ちてくるかわからない雷のようにアイデアや解法が立ち現れるような展示やコミュニケーションの場を醸成することの意義が指摘された。


もちろん、忙しい現在にそんな悠長なことを言ってられないという立場もあろうし、果たしてそうして自然計算を場に取り込む「手続き゠アルゴリズム」とはいかなるものなのか(そもそも設定できるのか)といった問いも残されてはいる。だが、デザインや現実の社会が何よりも問題解決を目的とする風潮に傾倒している現在だからこそ、ここまでに述べたような「自然」との結びつきを重視する「デザインの美学」が求められることも決して少なくないはずである(事実、セミナー後のアンケートのなかには、難しい話ではあったがなぜか頭の中に残ってしまい、翌日も何度も思い出してしまったといった旨の感想が届いていた)。終始、温厚な雰囲気をまといつつ話を進めて、会場からの質問にも丁寧に応えてくださる秋庭さんを中心に、そのような「場」が当日に作り上げられていたことは間違いないように思う。(増田展大)