2026.1.20

第35回デザイン基礎学セミナー『マンガというデザイン──「映画的手法」を超えて』


近年、グローバルな進展をみせるマンガ研究のうち、その表現手法はしばしば「映画的手法」との比較のもとに検証されてきた。では、その映画が制度や表現として大きく変動しつつある現在、マンガはどのようにデザインされうるのか──マンガ研究を世界的に牽引してきた研究者が迫る。

講師

ジャクリーヌ・ベルント Jaqueline BERNDT

1963年ドイツ生まれ。1991年に美学博士号取得後、来日。2009 年度より京都精華大学マンガ学部教授(理論系)。2017年度より、スヴェーデン・ストックホルム大学日本学科教授。芸術学・メディア美学の視点からマンガ研究に携わる。共編著『The Cambridge Companion to Manga and Anime』 (2024 年)のほか、オープンアクセスのブック・シリーズ「Comics Studies: Aesthetics, Histories, Practices」(De Gruyter)および「Stockholm Media Arts Japan」(ストックホルム大学出版局)の編集に携わる。また、日本国際交流基金のために海外巡回展「マンガ・北斎・漫画―現代日本マンガから見た『北斎漫画』」 (2016 年〜)、さらにチューリッヒのリートベルク美術館のためにマンガ展(2021 年)を企画・監修した。

日時

2026年2月10日(火)18:00~20:00(開場 17:45~)

会場

九州大学大橋キャンパス・芸術工学図書館閲覧ホール+オンライン(ZOOM)

*ご関心のある方はどなたでも自由に参加できます。参加ご希望の方はこちらの申込みフォームからお申込みください(講演は日本語)。

*オンライン参加をご希望の方は、上記フォームに入力頂いたアドレスに当日、URL等のご案内をお送りします。事前にZoomの最新版をダウンロードしてください。

主催

九州大学大学院芸術工学研究院・デザイン基礎学研究センター

共催|九州大学芸術工学部未来構想デザインコース

問い合わせ先|古賀徹 

designfundamentalseminar#gmail.com(#は@に置き換えてください。)

第35回デザイン基礎学セミナー(PDF)

レビュー

 『漫勉』のようなドキュメンタリー番組のうちで、漫画家たちが紙や画面の上にペンを落とし、すらすらとマンガを描き出す場面になると、いつも息を呑んで見入ってしまう。平面上のインクの染みでしかなかったものがリズミカルに踊るような線の数々へと姿を変え、それらが人物や物体として視認できる頃にはもはや生き生きと動き出すかのようである。多くの場合に「物語」の一部を形成するであろう、それらの要素を絶え間なく積み重ねていく作業の連続が、やがて現実とは異なる物語世界を作り出すことになる。かくもシンプルな道具立てでありながら、複雑かつ無数のヴァリエーションを生み出すデザインの仕組みこそが、1世紀以上にわたって無数の漫画家たち(と、それ以上の数の読者たち)を惹きつけてきた理由のひとつなのだろう。

 そのようなマンガを論じる仕方も近年になって大きな展開を見せている。前世紀までであれば子ども向けの低俗な文化とみなされるか、そうでなくとも劇画と学生運動を照らし合わせるといった時代反映論的な議論が少なくなかった。ところが最近では無数の作家論や物語論にくわえて、コマや吹き出しなどの独自の機制に着目する表現論、もしくは時代や国別、メディア間の比較研究も盛んである。かようにマンガについての言説が多様化する一方、そのメディアとしての独自性を明確化しようとする傾向が、みずからの比較・参照項となる他のメディアを絶えず必要としてきたことも事実である──今回の講演の副題に挙げられた「映画」がそれである。

より正確に言えば、物語を構成するマンガが参照してきたのは「映画的手法」であり、それを明確化したのが、かの手塚治虫であったという。事実、つい最近にフランス・パリのギメ東洋美術館で開催された大規模な展覧会「マンガ、まさに芸術!(Manga. Tout un art !)」のうちでも、このメディアに歴史的に先行する浮世絵から紙芝居の事例に続いて、「手塚治虫の創造力」にセクションが割かれると、その部屋には「漫画の神様」という言葉が掲げられていたそうだ。彼の仕事が強い影響力を持つことはたしかだとはいえ、しかしながらベルントさんによれば、これは不思議なことでもあるという。なぜなら、手塚作品は日本のマンガの世界的普及において決して大きな役割を果たしてこなかったにもかかわらず、彼を神様とみなす文字通りの神話が海外にも普及しつつあるのだから。

 こうして手塚を中心とした作家群から『少年ジャンプ』へと展開していく、いわば「少年マンガ中心史観」がマンガの歴史記述においては支配的になりがちである。マンガを論じる言説の焦点がいくら多様化しようとも、その歴史化のためには線状的な物語が必要とされてきたということだろうか。そうでなくとも圧倒的な仕事を残した「作者」像とならんで、それに匹敵する「芸術的な」地位や威光を既存の映画/美術から借り出そうとする欲望が背景には透かし見える。意識的であれ無意識的であれ、そのような歴史観自体がマンガ研究にとって今もなお固定観念となっているのではないか、とベルントさんは冒頭から語気を強めた。

ただし、これはマンガを輸出したり展示したりするという制度的な場面に限られた問題ではない。事実、ベルントさんの講演の大半は、その映画的手法を「脱する」ような表現やデザインを手塚以降の数々の事例から拾い集めることに捧げられ、いわば支配的な歴史観を内側から崩そうとするものであったからだ。

マンガにおける「映画的手法」とは、映画のフレームを紙面上のコマ/フレームとみなし、読者の視点を「仮想的なカメラ」として設定することで実現される表現上の慣習である。そこから登場人物へのクロースアップが緊張感を高めたり、続くコマで登場人物が見ているものに切り替えると読者の視線をスムーズに接続することも可能となるし、後者の場合には、見る/見られる関係が、映画の切り返しショットと同様、多くは男性/女性とのあいだに主体と客体との不均衡な視線の力学を構築することだろう。かくして読者/観客による主人公への感情移入を効率的に促すという意味において、映画研究でいうところの「コンティニュイティ編集」が、マンガの紙面上へと首尾よく移植されたというわけである。

しかしながら、ベルントさんが講演で指摘したのは、同じく手塚を起点とするマンガ表現の事例でありながら、このような物語理解を可能にする連続性を(さらにいえば、マンガと映画のメディアとしての近接性)を断絶してしまうような特徴の数々であった。

たとえば手塚マンガを読んだことがあれば、物語の進行に対して何の脈略もなく突然現れる「ヒョウタンツギ」を知らない者はいないはずだ。キャラクターの類型化された造形とならんで、手塚自身が物語のうちに登場し、登場人物たちに関与したり物語や背景を解説したりすることも少なくない。こうした物語世界外の要素の闖入や混在は、映画作品の慣習上はほとんど認められないことである。それに対してマンガのうちでは、登場人物たちが閉じているはずの物語空間から読者に(映画であれば、カメラ/観客に)面と向かって話しかけることもあり、驚いた途端にまるでカートゥーンのように物理的にはありえない造形へと自在に変化することもある。その際たる事例として、不意に登場人物の頭身のバランスが異なる姿へと過度にデフォルメされることもあるが、それでも同一のキャラクターとして、物語の進行にはなんら支障をきたすことはない。これらの特徴は決して映画上の表現とは相容れないものであり、一方では物語世界への感情移入を促しながら、それが結局はマンガの世界でしかないというなかば醒めた視線を作品内部に確保するかのようにも感じられる。

こうして物語世界やその連続性を断絶させる描写は、なにも手塚作品や後続する少年マンガに限られたものではない。竹宮恵子やそれ以降の少女マンガに頻出する巨大な眼の描写や、それとは対極的な顔のパーツの部分的な消失などは、物理的な視線のやり取りとして先に指摘されていた「見る/見られる」というリジッドな関係性を遮断ないし撹乱するものとなりかねない。それ以外にも『重版出来』(松田奈緒子作)などの最近の事例のうちには、「落書き」のような手書き文字の書き込みが頻出しており、それらが物語世界内のセリフであるのか外部のナレーションであるのか、決定不能な場合も少なくない。そうした手書き文字が、こうの史代の作品のうちではテキスタイルのように配置されたコマの並びのうちで、オノマトペとも効果線ともつかないかたちで混濁し、場面の緊張感を造形的に表現することにもなる。

ここまでの事例は要するに、映画的手法から逸脱してしまう数々の特徴なのであり、それこそがベルントさんが「ポストシネマ的マンガ」と呼ぶものにほかならない。ポストシネマとはしばしば、従来の映画制度がメディア技術の変動とりわけデジタル化とともに変貌を遂げ、独自の観客性や表現手法を引き起こしつつある状況を指すが、ベルントさんにとって、それはむしろマンガの表現史やデザインを捉え直すための好機でもある。事実、この場合の「ポスト」が指すのは時制としての「以後」ではなく、我々の固定観念を「脱」することであり、そのことはここまでの議論にも十分に示されている。あくまでマンガの紙面を起点としながら、ベルントさんの話は展示手法やメディア技術のみならず、国境や時代をも軽やかに横断していくものであったからだ。

続く会場との質疑では実際に、最近のメディア技術とともに登場したウェブトゥーンなどの事例から、戦時中のプロパガンダ写真雑誌や近代以前の絵草子/黄表紙本などとの比較、さらには文学・美術理論との関連などについて、観客たちと活発な議論が交わされた。そこに具現されていたのは、すらすらと描き出されるようでいて隣接する要素を貪欲に飲み込み、物語=線状的な歴史意識から逸脱していく雑駁さとでもいうべき特徴、つまりは「マンガというデザインの可能性」であったように思われる。(増田展大)